
-殺人博物館~子供による殺人-
「メアリー・ベル事件」
1968年5月25日、イギリスで1人の子供の死体が見つかった。
マーティン・ブラウン、4歳。口からは血を流しており、死因は薬物中毒によるものだった。不可解な事件ではあったものの、警察はこれを事故死として処理した。
しかし、犯人はそれに反発した。

「わたしがころした。だから またやってくる。」
事件から2日後の5月27日、近所の保育園に残されていた警察に対する挑発的なメモの一部である。メモは全部で4枚あり、警察は悪質ないたずらであろうと考えた。
そしてそれから約2か月が経った7月31日、またもや不可解な死体が発見された。
死体は、3歳のブライアン・ハウだった。首には絞められた跡が残されており、足にはいくつかの刺し傷も見つかった。しかしこの事件にはいくつかおかしな点があった。
1つは首を絞めた力が明らかに大人よりも劣っているという事。もう1つは見つかった刺し傷が極端に浅い事。これにより、警察は犯人がまだ子供であると推測した。
そしてその後、周辺の子供たちには一斉に聞き込みが行われ、1人の少女が逮捕された。

メアリー・ベル、11歳。犯行当時はまだ10歳であった。警察の尋問を受けた彼女が犯人しか知り得ないことを語った事が逮捕のきっかけとなった。
逮捕された彼女は自分がした殺人の詳細を恐ろしいほど饒舌に、詳しく語った。それは取り調べを行った警察官らが戸惑いを覚えるほどであったという。
「メアリーには感情というものがありませんでした」- 取り調べに付き添った看護婦は後にこう語っている。彼女は尋問を受けている間も、終始ニヤニヤと笑っていたという。

その後、2件の殺人で有罪判決を受けたメアリーは矯正施設に送られた。
いったい何が彼女を殺人鬼へと仕立て上げたのか?
売春婦であったメアリーの母親は、未婚のまま17歳の時にメアリーを産んだ。幼い時メアリーは母親の常用するドラッグを口に入れ、何度も生死をさまよっている。母親に愛されるという経験を、メアリーは一度もしていないのである。
その後、メアリーは1980年に出所している。
「ジェームス・バルガー事件」

1993年2月12日、イギリス。ジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンの2人は学校を無断欠席した。そのままショッピングセンターを訪れた2人は、食肉店の外で母親を待っていた2歳の幼児を誘拐した。

その後2人は幼児を連れたまま、ショッピングセンターから約4km離れた人気のない水路へと歩いて移動した。ここでいよいよ、2人の ”遊び” は始まりを告げる。
2人は2歳の幼児の顔面、及び胸部に容赦なく殴る蹴るの暴行を加えた。頭を地面に叩きつけ、重さ10kgの鉄の棒でさらに殴った。幼児は瀕死の状態になった。
その後2人は動かなくなった幼児を列車の線路まで運び、レールの上に放置した。
それから2日後、幼児の遺体は発見された。列車にはねられ上半身と下半身は轢断されていた。さらに口には乾電池が詰め込まれ、顔には青いペンキが塗られていた。
捕まったジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンは共にまだ10歳の少年であった。警察の調べで加害少年は2人とも被害者の顔面に塗られたものと同じ青ペンキが服に付着しており、靴にも血痕が付着していたことが判明した。その血痕をDNA鑑定したところ、それは明らかに被害者の血液だった。

「ただ、そうしたかっただけ」- ジョン・ヴェナブレスは後に、そう語っている。
ロバート・トンプソンの父親は事件の5年前に家族を捨てて蒸発しており、自宅は事件の1週間前に全焼していた。ロバート・トンプソンの母親A.トンプソンは極度のアルコール中毒で、彼女が7人の子供の面倒を見ることは不可能だった。
ジョン・ヴェナブレスの両親もまた離婚していた。ジョン・ヴェナブレスの母親が病を患った間、ジョン・ヴェナブレスの兄弟姉妹は学習障害から特殊学級への通学を余儀なくされた。ジョン・ヴェナブレスは学級内で孤立したため、注目を集めようとして壁に何度も頭を打ちつける癖があった。
2人の裁判は荒れた。大衆紙ザ・サンなどは加害少年2人を終身刑にするよう求める署名30万人分を集めた。裁判所は加害少年2人は長い間、世間から隔離されなければならないと判断したが、終身刑には至らなかった。
イギリス全土で抗議運動が起こる中、2人は2001年に釈放されている。


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